昭和42年01月01日 夜の御理解



 信心は、本当の姿。いわゆる実相を求めさせてもらい。実相を分からせて、悟らせてもろうていくことだと私は思うです。本当の姿。例えば、お正月に、今日だけぐらいは大きな声をだすな、というてその、正月だけを例えば腹を立てなかったり、ね、または大きな声もださんようにするというようなことは、これはおかしな話です。または、正月そうそう病気をする、縁起が悪い。そんなことはないです、ね。
 ほんというたら、正月早々にはっきりとお取り払いいただくということは有難い事なんです。もう正月早々寝てからもう、具合の悪かったっちやようならん、そんな、そんなことはほんとなことじゃないですね。あれは蜀山人(大田南畝の別号)ていう狂歌かなんかの、狂歌の先生が江戸時代におられましたですね。あの人にある、大家のひとが、息子さんがお嫁さんをもらったんです。
 それでなにか、めでたいその歌でも一つ作ってもらおうと思って頼みに行ったんです。で、その歌の文句をちょっと忘れましたけれどね、一年後のことをその蜀山人が書いてあったとっちゅうですね。なにか、花嫁花婿は、めでたいのだけれども、一年後には、しょんべん臭い床になってしまうっちゅう。しょんべん臭きねどこかなんか、最後の句はそんなことでした、ね。それは本当のことなんですから。
 ならいつも花嫁をみて、迎えたからというてです、花嫁花婿の様な事は出来んのだから。もう一年後には子供ができる。子供ができりゃあ確かにしょんべん臭い寝床になってしまうだろうとこういうこと、ね。だからその中にいわば本当の姿というもの、人間の生きていく本当の姿というものを追求していくということですね。そして、段々分からせていただけばいただくほど分からせてもらうことは、そういう例えば中にありましても、やはり人間は神の子としての自覚に目覚めてくるわけです。
 ほんとの事が分かって来る、ね。今日先ほど若先生が今日お取次させて頂いた、いろいろな中に、ほんとにまあ身の毛のよだつような、またはそのビックリする様なお届をいくらもさせて頂いたと言う様な事の中から、きせずして福岡のかわ、かわなんちゅったっけ、川上さんとそれから、久留米の佐田さんなんのお届けをしておりました。二人とも川上さんは皆さんもご承知のように、十二年ぶりに子供さんを頂いたんですからね。もう結婚されたけども子供ができなかった。
 私が福岡へお話に行きよりました時に、導かれて参って来た、おかげを頂かせてもろうて、そしてその月からおかげを頂いたんですから。そして矢継ぎ早に年子ですかね、もう二人の息子を頂いて、それっきりまた出来ません。佐田さんも同じようなケースで、あちらは六年ぶりにできました。ほんでまあ矢継ぎ早に娘が二人できました。ですから三人目にはもう本当に姑親やの方から、大変こう悪く言われてですね。
 そのもうはよ降ろしてしまえというてやかましかったんですけども、神様はそれを許させなかった、ね。今度一回だけ生ませて下さいというて願えて。というてその願った所がその娘ばっかりであった中に、三人目には息子が生まれた。それでそのまあ大変な喜びで、本当に降ろせって言いよったそのお母さんも、それから信心になられたという位に、現在熱心に信心なさっておられますが、おかげを受けておられる方です。
 やっぱり、福岡の方もそうでした。もう矢継ぎ早にできましたもんですから、その年子ですもん。ですから、その降ろすっちいうわけ。神様のそれこそ十何年もでけずに、御無理をお願いしておかげを頂いてから、だからというてそげなことはできんというて、それも私はやめさせましたが、ほんとに、あん時に二番目んとを降ろしとったら、もうそれっきりできんのんですからね。
 昨日お父さんと二人の子供も、もう中学校の、なんていうですか、中学校一年と小学六年生ですから。あんでてまいりましてもうお父さんよりも大きうなって。はーこの子が神様の誂え子ですなというて、御礼に出てくると必ずそういうんです。神様の特別の誂え、ね、神様の溺愛が違う。本当の誂えだと。ほんで、佐田さんにもそんなこと私が言うんです。ところがその、たしかに神様の特別なおかげ。
 特別な誂え子を頂いておるというその二人の人達がです、きせずして今日は同じ様なお夢を頂いたというて今朝から、その若先生が二人をお取次させて頂いておるのです。というのはですね、まあ二人ともそのなんていうでしょうかね、精進ですかね。あの黒い水引の掛っておる、そのお知らせを頂いております。ほんとに縁起でもない一生懸命お願いさせて頂き、夢の中でお願いさせて頂いたら、ようやくそのまあ紅白のそれを頂いたといったような意味のそのこと、ね。
 まあそれにほかにもいろいろ、その本当に正月早々ビックリするような、まあお知らせを頂いておるんで御座いますけれども、特別にですね神様のおかげを頂いておる受けておるというのじゃなくて、やはり誂えたっですからね、これは子供だけの事じゃないですよ、おかげでもです神様の、私共なんかはもう絶対そうです。神様のおかげを頂いておらなければ、ひょっとすりゃもうこの世に私共はおらんのかもしれません、ね。
 特別の神様の御神意のままに、特別のいわば、誂えたようなおかげをです、受けてきておりますから、やはり値段が高かことは間違いなかです。溺愛を、ね。ですからその、値段の高いそれを、支払う事のできない、私は信心になったら、神様がそうやって脅しなさるとじゃない、そうしたお気づけを下さるんだというふうに私は思うです、ね。人間の本当の生き姿というかね、生きていく姿というもの。
 それをこれは人間だから、これが、例えば正月だけが精進する。正月だけが立派であるといったようなのは、これはだから不自然だとこういうこと、ね。例え人間ですから、正月どんな失敗をいたしましてもです、正月早々失敗したから、今度は、その、本気で改まらなければ、ということになれば、正月だけが困った事であって、後は全部良い事になる。反対の事を言うと、ね、
 正月だけは立派にやって来たけれども、さあ年末にでもなって来ると、もう正月にいわゆる元旦の計をたてたけれども、一年を振り返ってみると、何にもできていなかった、ね。だから今年こそは今年こそはで一生終わってしまわなければならない、ね。人間の本当の、いわば姿というものがです、ね、段々立派になっていくというのが信心。だから現在立派でないものが。
 立派をよそおうたところで、それは正月三日間ぐらいのことしか、いわばそれはメッキですからね、すぐ剥げてしまう。それよりも私どもは様々な中からです、ね、ほんとに信心の奥がに触れていき、本当の実相に触れてまいりまして、ね、そこんところに私は、これではおかげの受けられないというものをとっちめていくというか、ね。そして人間のほんとの、いわゆる神の子としての自覚のでけれるところまでです。
 人間をいわばれいせいを高めていくというところに信心はあるとこう思うのです、ね。ですからもうほんとに、現在のその、そのままの姿が、そのまま、私はでることのほうが本当だとこう思う。そして、どういうところにでらせていただいても、それが、誰が見ても、成る程と合点のいくような、自分自身もまた、神の子としての自分自身が合掌でけれる私になっていくという精進こそが信心だというふうに思うですね。
   どうぞ。